産経新聞コラム 自由エネルギー原理 坂本龍一コンサートでみた時間の超越

かつて斬新な音と映像で世界を驚かせた坂本龍一さん。先日、その坂本さんのピアノコン
サートを大阪で体験してきました。
舞台は坂本さんががんで他界される前に収録した演奏を、ホログラムで再現するところか
ら始まります。揺れる前髪、鍵盤をつま弾く指先。今にも息遣いが聞こえてきそうな肩越
しの距離で演奏を聴いていると、そこに本人がいるような錯覚を覚えました。
脳の働きを説明する考え方に「自由エネルギー原理」があります。簡単に言えば、脳は「
自分の予想」と「実際に起きたこと」のズレを、できるだけ小さくしようとする、という
考え方です。私たちは目や耳から入った情報をそのまま受け取るのではなく、経験をもと
に「きっとこうだろう」と先回りして世界を予測しています。予想と違えば考えを修正し
、ときには行動して現実のほうを変える。それが知覚や学習、意思決定の原動力になると
説明されています。
音楽は、この「予測」と「裏切り」を巧みに使う芸術です。ある和音を聴けば、私たちは
無意識に次の音を予測します。そこに意外な和音が現れると「おっ」と耳を奪われ、その
後、心地よい響きに解決すると満足感が生まれます。ジャズの即興演奏が面白いのも、次
の音の予測を少しだけ裏切るからでしょう。ベートーヴェンの音楽にも、予想どおりに進
みそうで進まない瞬間が巧みに織り込まれています。
そう考えると、坂本さんのピアノにも、美しい旋律の中に小さな「予想の裏切り」が散り
ばめられているように感じます。YMOでは斬新な電子音で世界を驚かせ、鬼籍に入ってな
お、アートを通じて私たちの脳に語りかけてきました。
笙の響き、激しい波音、雪解け水のせせらぎ、雨だれ。彼が集めたさまざまな音が、モノ
クロームの映像と、彼の調合した香りともに流れます。自然と音楽、「わかる」と「わか
らない」の境界を行き来するうち、私は音を聴いているのか、映像を見ているのか、それ
とも自分の記憶をくすぐられているのか、わからなくなりました。
脳は予測できる世界を好みながら、ほんの少し予測を裏切られることに喜びを感じます。
芸術とは、その境界を操る営みなのかもしれません。音と映像の魔術師は、コンサートの
最後に私には「時」を見せてくれました。
このアート展では、生前から親交の深かった 田中 泯氏が朗読と表現をしています。モノクロの映像、ビブラートのかかった声、調香された香り、まさに五感のすべてに語りかけてきます。大いに刺激された時間を過ごすことができました。
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